Thinking Women

Written by Shashank Lele in 1994-5 Translated by Yoshida Mitsuko

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Location: 京都市, 京都府, Japan

May 21, 2007

第7章(1)

カルカッタでは、日中、タクシーやバスを探さないようになった。「ヴィシュヴァ・バーラティ・エクスプレス」(シャンティニケタンのボルプール駅・カルカッタのハウラー駅間を往復する列車)でボルプール駅から、ハウラー駅まで4時間近い旅をした後、ハウラー橋を歩いて渡り、アムハースト通りまで徒歩で行けるということがわかったからだ。あまり神経をすり減らさずに済むし、ほんの1時間かそこらで着く。東に行くことで私は随分たくましくなった。

そしてハリソン通りを下って行くのには独特の楽しさもある。もし、腐った野菜の悪臭や、囲いのない小便所がさほど嫌でなく、絶え間なく人にぶち当たられたり、押されたりすることや、高山にいる時のように酸素の薄い空気を気にしないなら、の話だが。それでも、ミニバスのオーブンで焼かれているより、かなりましなのである。一度など、ハウラーから橋を横切ってチットプールにたどり着くのにそのバスで1時間半かかり、少なくとも2キロは汗で失った。

カルカッタには、70年代にボンベイから仕事の旅で初めて来た。その頃私は営業部の管理職だった。その旅で童貞を失った、それは、中央通りとハリソン通りが交わる近くの路地にある3階建てビルの中のどこかであった。今でも彼女の名前を覚えている。コビタだった。肉付きが良く、色白でとても親切だったことを覚えている。

その後、何度もカルカッタに来たが、二度とコビタの所へは行かなかった。私は感傷的なタイプではない。

数年後、カルカッタ出身(正確にはボワニプール出身)の女と結婚した。3年間一緒に暮らし、最初に女の子、そして男の子が生まれた。その後、6年間この同じカルカッタで、正確にはアリポールの裁判所だが、悲惨な離婚訴訟を戦った。

昨年再びここに来た。カレッジ通りの出版社が、アメリカの妹の家で書いた私の短編の印刷を承諾したのだ。全く外出せず、妹の家に居座って書くだけ。私の主治医以外はみんな、私がもう良くなった、もう気がふれていない、と言おうとした。しかし、私は誰も信じることができなかった。

カルカッタは不思議な所で、誰もが母親を亡くした子供のように私を扱う。大半の人々が一生に一度もフグリー川(カルカッタを流れる大きな川)さえ越えたことがないのに、私に対して何についてでも気軽にアドバイスする。いかにして書くか、いかにして無駄を省くか、などなど。

例えば、写真タイプ植字機に私の短編を打ち込んでいるのはアジットさんで、この紳士は、趣味でホメオパシー医をやっている。私が酒をやめたと言ったら、その反対のことを強く意見した。「急にやめてはいけない、便秘を促進するから。便秘は、とても危険なのだ」と言う。

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